足立憲彦氏 (昭和50年卒) 所蔵記録及び写真 (写真のコメントは総て足立氏によるもの) |
1972年5月14日 vs早大学院 (練習試合) ● 14-32 (浅野G) 文化祭の招待試合として組まれた。 この前に村田・小泉・大沼・石黒がデビューした日大戦があったが、日時不明。 これが最古の写真。オヤジがとった素人写真で米粒のようで申し訳ない。 1972年11月?日 vs鎌倉学園(全国大会県予選リーグ) ● 0-24 (浅野G) ほとんど記憶にない。法政二・慶応戦は棄権。 「浅野はキケン」が当時の常套句だった由。 ボロカスに言われ、やられたのがかすかに頭に残る程度。 1972年11月?日 vs東海大学付属(練習試合) ● 0−30 (浅野G) 3年後に浦安へ移転と同時に廃部になった名門校。 東海広田監督の「君たちねえ。気を付けないとけがするよ」は大ブームとなる. 1972年11月?日 vs駒場学園(練習試合) △ 28−28 (浅野G) 江口御大の後輩である吉田監督率いる創部まもない駒場登場。 ようやく試合らしい試合となる。 1972年12月?日 vs日大高(練習試合) 〇 30−12 (浅野G) 当時の日大はタッチフットから切り替えたばかりでまだチームの体をなしていない状態。 タックルすると 「ジャージ!」 (ジャージを掴んだの意味)と抗議される。 初勝利なるも双方の未熟さのみが際立った感あり。 1973年5月5日 vs早大学院(関東大会1回戦) ● 0−38 (都立西G) 都立西高で行われた公式戦。 完敗。何もできず。 1973年7月 vs駒場学園(練習試合) Δ 6-6 (浅野G) 1学年上の退部が相次ぎ、人数不足解消せず。 小泉がQBを務めたこの試合は、大沼の知人であるカメラマンが激写。 さすがにいい写真が多いので記憶に残っている。 No.11の鶴見は入部したて。試合には出ていない。 1973年11月?日 vs慶応義塾(全国大会県予選リーグ) 〇 8−6 (慶応日吉G) 浅野フットボールの夜明けともいうべきゲーム。 ジャージは鬼皮(一応美津濃製。それにしても丈夫な生地)から今はなき富士丸製へ。 黄色としたのは江口御大がプレーしていたイエローシヤークス(現シヤークス)のまね。 7分袖は主将小泉の「すりむくから長袖!」の一言で決定。 慶応は1日二試合を組み、第一試合が法政二高で第二試合が浅野。 思えば対戦相手浅野をなめきった新日本プロレスなみのハンディキャップマッチ。 前述の野口を中心としたディフェンス(自称「イエローギャング」)が慶応を圧倒。 ちなみに慶応戦の決勝点となったTFPの2点は足立のフックパス。 ごたごた続きの「赤バッジ」でただ一人のこり、この日QBを務めた島津が引退。 1974年2月24日 vs都立西高(練習試合) 〇 56−0 (浅野G) 主将小泉・副将村田・主務足立の新体制。 古豪都立西をわざわざ都内から横浜へ招待。 向こうの調整不足もあるが圧勝である。 オフェンスはこの試合から本多がQBで、RBは小泉・石黒・広田の黄金カルテット。 ラインはRE滝口・RT村田・RG田中・C大沼・LG永田・LT浅田・LE足立でほぼ固定。 控えにはC鶴見、HB内山、E滝口。 デイフェンスは5-3体型でラインはDE川村か滝口・DT村田・MG野口・DT浅田・DE足立。 この試合後、退部したMG野口のあとには末永(これまた東海戦後退部)。 LBはMLB田中・OLB大沼・OLB石黒。OLBの控えには鶴見、永田。 MLB田中の成長が躍進の契機となった DBはDH広田・DH内山・S小泉。 このメンバーで関東ベスト4までたどりつく第1期黄金時代を築くことになる。 1974年4月7日 vs日大高(練習試合) 〇 26−0 (浅野G) QB本多・FB石黒・HB小泉が完全にチームの核となる。 E川村が骨折したため、「爆弾コール」滝口へ。 この日大によもや半年後に引き分けるとは思いもよらなかった 1974年5月5日 vs正則学園(関東大会1回戦) 〇 26−6 (浅野G) 関東大会1回戦を文化祭の招待ゲームと兼ねさせた。 部としても初めての展示を行う。 ここで負ければ大恥であったが完勝。 この日絶好調QB本多のフエイクパス。パスプロに向かうG田中・大沼。 1974年5月20日 vs東海大学付属(関東大会2回戦) 〇 14−6 (日大下高井戸G) 浅野フットボールが結実した一戦。 東海は後に日大フェニックスのエースQBとなる鈴木が中心。 緊迫したディフェンスゲームをMLB田中・DT村田が耐え、2年前の屈辱を果たす。 1974年6月9日 vs日大桜ケ丘(関東大会準決勝) ● 6−53 (日大下高井戸G) 試合前週の練習でエースMLB田中が靭帯断裂。 やむなく44体型にするも桜ケ丘の壁はあまりにも大きかった。 試合後、力を出し切れなかった悔しさと負けた悔しさで全員が号泣。 1974年7月18日 vs駒場学園(練習試合) ● 12−14 (浅野G) 事実上の高3の引退試合。 ようやく浅野に勝った駒場を尻目に、気の抜けたビールのよう。 主将田中・副将本多・主務鶴見の体制へ。 1974年9月8日 vs慶応義塾(全国大会県予選リーグ) ● 12−22 (慶応日吉G) この年から関東学院が加盟し、浅野・法政二・慶応・日大・鎌学の6校でリーグ戦。 夏練習を「受験勉強」で免除された高三が合流したものの、ギクシャクが続く。 雪辱に燃える慶応に競り負ける。 慶応グラウンドでの公式戦。 1974年9月22日 vs法政二高(全国大会県予選リーグ) ● 8−34 (法政小杉G) 伝説のFB松井にディフェンスが切り裂かれた。 日大桜ケ丘に大敗したときは全員大泣きだったのに、負けても悔しさ湧かず。 1974年9月29日 vs日大高(全国大会県予選リーグ) △ 14−14 (法政小杉G) 燃える本多ら高二に対して、なぜか冷める高三、狭間で戸惑う高−の図式変わらず。 試合も空回りの連続。 雨上がりの法政グラウンドでギャングタックルに向かう足立・広田・田中。 1974年10月10日 vs関東学院(全国大会県予選リーグ) 〇 74-0 (浅野G) 高二・高一主体の編成で圧勝。 勝利は何よりの良薬。涼しさとともに高三のコンディションも上がってきた。 1974年11月17日 vs鎌倉学園(全国大会県予選リーグ) 〇 50−0 (浅野G) どこからかプレイパターンを仕入れてきた永田の情報通りの鎌学オフエンスを完封。 優勝したのは法政二。 法政二は全国大会決勝まで進み、あの悲劇のQB猿木率いる関学に惜敗した。 試合終了後のハドル。江口御大を囲んで。 |